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水戸黄门-德川光圀

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发表于 2007-3-5 09:13:25 | 显示全部楼层 |阅读模式
以下是来自《百度百科》的介绍:

水户黄门(水戸黄门 みとこうもん)

水户黄门-水户是地名,今日本茨城县水户市。
黄门是日本古时官名“权中纳言(中纳言)”的汉风名称。

水户藩第2代藩主德川光圀公,被人们称为“水户黄门”,以寺社(寺庙神社)整理为中心、根据宗教政策等确立了水户的藩政,因为也着手编集的《大日本史》和采集对名君的评判,后来产生了《水户黄门漫游记》的传说。可以在电视剧等中广泛的看到相关题材。

德川光圀(とくがわみつくに, Tokugawa Mitsukuni)(1628年7月11日 - 1701年1月14日)

日本江户时代的大名,水户藩第2代藩主。

江户时代前期御三家大名。字子龙,号梅里。1661年(宽文元年),继任水户藩(今茨城县水户市)藩主。1659年(万治二年),明末学者朱舜水至长崎后,他得知朱舜水学识渊博,善理儒政,于1665年(宽文五年)请朱舜水至水户,协助管理藩政,重振藩学,使朱子学在水户藩确立起主导地位,世称“水户学派”。接受朱舜水的建议,以儒家礼仪,制定藩规;重实学,实行劝农政策;兴教育,广招贤士。设寺院,进行宗教改革。因其政绩显著,民风淳朴,经济繁荣,社会安定,在日本各藩中享有盛名。他与朱舜水倡导的水户学,在日本文化思想史上产生重大影响,成为日本民族的精神财富。后世人著《水户黄门漫游记》,对他及其政绩给以很高评价。

德川光国(“圀”是“国”的异体字)是德川家康的孙子,因为是德川家康直系子孙,也是辅助将军执政的“御三家”之一,所以藩主必须定居江户。水户黄门64岁时才回到茨城县水户,隐居“西山庄”,自称“西山隐士”、“西山樵夫”专心编纂《大日本史》。隐居时接受将军赏赐的“中纳言”官职,地位相当于中国唐代的“黄门监”,于是世人便惯称他为水户黄门。水户藩世代承袭了老祖宗的大遗志,明治政府发布“废藩置县”政策时,这项艰辛的编史事业也没有半途而废,成为水户德川家的个人事业。《大日本史》从1657年开始编纂,于1906年完成,特别献给明治天皇。长达250年的事业到这时才总算大功告成。

德川光国被三代将军家光指定为水户藩的继承人。他对日本的最大贡献莫过于请明王朝后裔朱舜水为师为日本奠定德川幕府时期及之后的尊儒传统他一生尊崇中国儒学的古典,遗爱民间因此民间编造出许多他微服出访的有趣故事,宛如日本的包青天,由于他是三代将军的侄子、四代将军的叔父所以亮出德川上三家的葵纹,天下无敢不从,他官至中纳言,中纳言的别称就是黄门。不过历史上的他当然不及戏曲小说中精彩,时代精彩便在于人、事、物的考究,加上演员精彩演出,才令观众大呼过瘾。

《水户黄门》是日本TBS电视台制作的电视剧,从1969年至今仍在播放。是水户藩第2届藩主德川光圀作为主人公的日本历史剧。
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发表于 2007-3-5 10:03:46 | 显示全部楼层
学习了,长知识阿
发表于 2007-3-5 22:06:54 | 显示全部楼层
东京郊外有个日光江户村,我曾经去过一次,里面全是江户时代的建筑和风景,非常有特色。
电视剧版的水戸黄门就是在那里拍的,如果和正兄能来日本旅游,建议一定要去看看。
发表于 2007-3-5 22:30:03 | 显示全部楼层
电视里介绍的水戸黄门里的德川光国,简单说就是中国的包青天,惩恶锄奸,保护弱者!!!
发表于 2007-3-5 22:35:40 | 显示全部楼层
谢谢K兄提供资料~~
发表于 2007-3-13 00:54:57 | 显示全部楼层
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发表于 2007-3-13 22:06:34 | 显示全部楼层
学习了!多谢楼主分享
发表于 2007-3-14 15:56:39 | 显示全部楼层
徳川光圀
(とくがわみつくに)
(1628―1700)江戸前・中期の大名。御三家水戸藩第二代の藩主。幼名は長丸{ちょうまる}、のち千代松{ちよまつ}、元服して名を光国といった。光圀となったのは50歳代後半からである。字{あざな}は、初め徳亮{とくりょう}、また観之{かんし}、のち子竜{しりゅう}。号は日新斎{にっしんさい}、常山人{じょうざんじん}、率然子{そつぜんし}などがあるが、晩年の梅里{ばいり}、西山{せいざん}が有名。義公{ぎこう}は諡{おくりな}である。光圀を理解するには、その生涯を四期に分けるのがもっとも適当であろう。

【第一期】
出生と水戸時代。寛永{かんえい}5年6月10日、水戸城下の重臣三木之次{ゆきつぐ}の屋敷で生まれ、6歳で水戸家の世子{せいし}(跡継ぎ)に決定するまで。初代藩主徳川頼房{よりふさ}(家康の第11子)の三男。母は谷久子、諡は靖定{せいてい}夫人。光圀が頼房の子と認められ、水戸城入りをしたのは5歳のころで、その出生は不遇であった。

【第二期】
世子の時代。世子に決まり、江戸・小石川の水戸藩邸に移った1633年(寛永10)から61年(寛文1)34歳で藩主となるまでの、およそ28年間。18歳のとき『史記』の「伯夷{はくい}伝」を読んで感動し、学問に目覚め、修史の志をたてるまでは、非行が多く父や家臣らを困らせた。27歳のとき前関白近衛信尋{このえのぶひろ}の娘泰姫{たいひめ}と結婚したが、31歳で夫人を亡くしてからは、生涯後妻を迎えなかった。1657年(明暦3)2月、江戸大火の直後、光圀は史局を江戸・駒込{こまごめ}の中屋敷(東京大学農学部構内)に開設した。修史事業の第一歩である。

【第三期】
藩主の時代。34歳から1690年(元禄3)63歳で引退するまでの29年間である。この間、上水道の敷設、士族の墓地の創設、社寺の郊外移転などによって、城下町水戸の整備を図ったほか、小石川邸内に史局を移して彰考館と命名し、全国から学者を招いて、『大日本史』編纂{へんさん}を本格的に進めた。

【第四期】
西山時代。引退してから翌年水戸の北方西山の地(常陸太田{ひたちおおた}市)に山荘を建てて、元禄{げんろく}13年12月6日、73歳で没するまでのおよそ10年間。藩主の職は兄の高松藩主松平頼重{よりしげ}の子綱条{つなえだ}に譲ったが、なお政治的には綱条の後見的役割を果たしたほか、『大日本史』の本紀、列伝の完成を目ざして、彰考館を水戸城中にも開き、その結果多くの学者が水戸にも集められ、水戸の学問的発展の基となったこと、盛んに領内を巡り民情視察を行ったこと、とくに文化財の発掘保護に努めたことなどは、晩年の特色である。
 光圀のおもな業績は、父頼房の死に際して殉死を禁じ幕府の殉死禁令に示唆を与えたといわれること、徹底した社寺の改革などが政治的に重要である。文化史上では、『大日本史』など各種の編纂事業、侍塚{さむらいづか}古墳の発掘調査、那須国造{なすくにのみやつこ}碑はじめ多くの文化財の保護に努めたことなど、現代的意義が大きい。世に喧伝{けんでん}される「水戸黄門{こうもん}漫遊記」の類は、光圀の名声をもとに、明治末期から大正にかけて創作されたものであろう。→大日本史    <瀬谷義彦>鲐

【本】佐藤進著『水戸義公伝』(1911&#12539;博文館) ▽名越時正著『新版水戸光圀』(1986&#12539;水戸史学会) ▽瀬谷義彦著『水戸の光圀』(1985&#12539;茨城新聞社)
发表于 2007-4-19 14:20:14 | 显示全部楼层
发表于 2007-4-19 14:20:41 | 显示全部楼层
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