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发表于 2009-12-10 23:53:21 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 aiyin 于 2009-12-11 07:36 编辑

訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

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「リンゴの唄」並木路子さんが死去
 「リンゴの唄」の大ヒットで知られる歌手の並木路子さん(なみき・みちこ、本名南郷庸子=なんごう・つねこ)が7日午後11時ごろ、心筋梗塞(こうそく)のため東京都渋谷区の自宅で死去していたことが8日、分かった。79歳。並木さんの「リンゴの唄」の明るい歌声は、敗戦直後の日本に大きな希望を与えた。最近はマイペースで活動を続け、この日も埼玉・草加市で公演する予定だった。葬儀、告別式の日程は未定。
79歳心筋梗塞
 所属の日本コロムビアによると、並木さんは8日、埼玉・草加市で歌手二葉百合子(69)とチャリティー公演を開く予定だった。同日午後、関係者が都内の自宅に迎えに出向いたが、呼び鈴を押しても応答がなかった。近所に住む長男秀人さん(38)が駆けつけて、かぎをあけたところ、浴室でぐったりした並木さんを発見。119番通報を受けて救急車が出動したが死亡が確認された。
 並木さんは7日午後8時まで、普通に仕事をこなしていた。午後11時ごろ、ふろに入った際、容体が急変したとみられる。2年前に夫隼人さんを亡くしてからは独り暮らしだったが、昨年から体の調子を崩していたという。

映画そよかぜ
 並木さんは、敗戦後の日本復興の大きな原動力だった。終戦直後の1945年(昭和20年)9月、戦後初の映画「そよかぜ」(佐々木康監督)にヒロインとして主演。「リンゴの唄」は挿入歌として流れ、並木さんがりんご園で楽しそうにこの歌を口ずさむシーンが爆発的人気を呼んだ。翌46年にレコード化され、当初はB面の扱いだったが、並木さんの歌声と軽快なメロディーが、敗戦に打ちひしがれていた庶民の心をつかんだ。戦後の歌謡曲初の大ヒットとなり、発売3カ月で7万枚が売れた。17円50銭のレコードが、やみ市では100円の値がついた。
やみ市で100円
 終戦直後、りんごは一般庶民に程遠い高級品だったが、並木さんはNHKの公開番組で2箱分のりんごをサービスで客席に配った。東京大空襲で母が、終戦後の引き揚げ途中に父が亡くなり、兄は戦死。並木さんにとって戦争は痛ましい記憶だった。のちに終戦直後を振り返り「毎日、ひえやイモを混ぜたご飯を食べるだけ。初めてりんごを食べた時、なんておいしいんだろうと思った。りんごってどんな味がしたんだろうと思い出しながら歌った」と話した。
味を思い出し
 60年代以降はしばらく歌手活動から遠ざかっていたが、95年(平成7年)には「リンゴの唄」発売50周年を記念しコンサートを開いた。今年3月にスタッフに会った際「戦争中にフィリピンで聴いたラテン語の曲を歌ってみたい」と、新たな活動に意欲的だったという。
(写真=並木路子さんの「リンゴの唄」は戦後の日本を元気づけた(95年7月6日、日比谷公会堂で))


◆並木路子(なみき・みちこ)
 本名南郷庸子(なんごう・つねこ)。1921年(大正10年)9月30日、台湾生まれ。36年(昭和11年)、松竹少女歌劇学校に入り、37年に東京・浅草国際劇場で初舞台。SKD在籍中の45年に松竹「そよかぜ」で映画初主演。46年にSKDを退団し松竹、コロムビアに同時入社。主な映画出演作に「仮面の街」「陽気な街」「エノケンの天一坊」など。前夫と50年に離婚。55年に東宝宣伝プロデューサーの南郷隼人さんと再婚したが99年に死別した。長男がいる。




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   【リンゴの唄】
 赤いリンゴに 口びるよせて    だまってみている 青い空
 リンゴはなんにも いわないけれど リンゴの気持は よくわかる
 リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
 あの娘よい子だ 気立のよい娘   リンゴに良く似た 可愛いい娘
 どなたがいったか うれしいうわさ かるいクシャミも とんで出る
 リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

 朝のあいさつ 夕べの別れ     いとしいリンゴに ささやけば
 言葉を出さずに 小くびをまげて  あすも又ねと 夢見がお
 リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

 歌いましょうか リンゴの歌を   二人で歌えば なおたのし
 皆なで歌えば なおなおうれし   リンゴの気持を 伝えよか
 リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

     作詞・サトウハチロー
     作曲・万城目 正  



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◇並木路子さんのおもなヒット曲◇
発売
年月 タイトル 作  詞 作  曲
46・1 リンゴの唄 サトウハチロー 万城目正
46・1 そよかぜ サトウハチロー 万城目正
46・5 可愛いスイートピー サトウハチロー 万城目正
50・6 バナナ娘 サトウハチロー 万城目正
50・8 陽気なチンタ トーマス石川 服部レイモンド
51・2 ペンギン鳥の夢 カワタイチロー 米山正夫
51・8 森の水車 清水みのる 米山正夫
52・8 陽気なカナリヤ娘 門田ゆたか 原六朗
73・7 雨の日暮 サトウハチロー 服部良一
73・7 お使いは自転車に乗って 上山雅輔 鈴木静一
77・2 嘆きのブルー・ビギン 和田陸夫 平川英夫
86・6 恋の道玄坂 宇川確 小杉仁三
88・1 恋はおしゃれ 田中リリ子 こまつ美穂
89・9 路よ 若原春江 坂本一馬
※発売年の数字は西暦


なじみ深い方
 ■友人の歌手田端義夫(82)の話 並木さんの「リンゴの唄」と私の「かえり船」とほぼ戦後の同時期の歌でしたので、なじみ深い方でした。つい先月の末もお会いしたばかりで、その時はお元気でしたので信じられません。ごめい福をお祈りいたします。

あこがれの存在
 ■歌手二葉百合子(69)の話 昨年10月に中野サンプラザのコンサートでご一緒させていただいた時には元気でらしたのに残念でなりません。ふだんでもステージでもファッションがおしゃれでステキ。私たちのあこがれの存在でした。

 ■反畑誠一氏(音楽評論家)の話 敗戦に打ちひしがれ、焼け跡の中でどうやって生きていこうかと途方に暮れていた国民を、並木路子さんの「リンゴの唄」がどれだけ励ましたことか。戦後の歌謡曲は彼女の歌声から始まったと言える。



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悼む ペギー葉山

渋谷で合唱「お客さんに夢を」
 先生は本当に「リンゴの唄」を大切にされた方でした。もう数年前にたたんでしまいましたが、渋谷の道玄坂に「ブルースポット」というお店を開いて、忙しい合間をぬってそこで歌っていました。終戦後の焼け野原で「リンゴの唄」を聴いて勇気づけられた世代が多く集まるお店で、いつも最後は「リンゴの唄」の大合唱。先生は歌い終わると「明日からも元気を出して頑張りましょうね」とお客さんを励まして店から送り出すんです。
 「歌い手は舞台に上がったらお客さんに夢をあげなきゃいけないのよ」が先生の口癖でした。その言葉通り、いつも華やかできれいな方でした。

 今も日本歌手協会の副会長を務められ、常に歌謡界全体のことを考えていた方でした。数日前に「これからは橋幸夫さんや田辺靖雄さんら若い人たちにもどんどん役員になっていただき頑張ってもらいましょうよ」と話していた矢先なんです。ブラジルやハワイの日系人の方々を励ます公演も計画されていました。

 まだまだおやりになりたかったことがたくさんあったでしょうに。残念です。


http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo010409.html
 楼主| 发表于 2009-12-10 23:45:34 | 显示全部楼层

又给大家看一个讣告,淡谷のり子的

訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

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淡谷のり子さん 老衰のため死去
 「別れのブルース」「雨のブルース」などのヒット曲を持つ歌手淡谷のり子(本名淡谷のり)さんが22日午前4時30分、老衰のため東京都大田区内の自宅で死去していたことが25日、分かった。92歳。淡谷さんは今夏の猛暑で体調を崩し、家族たちに見守られ息を引き取った。「ひっそりと送ってほしい」の遺志で死去は伏せられ、この日、都内で親族だけで通夜が営まれた。約70年、戦前、戦後を通じて日本の歌謡界を生きたブルースの女王が、現役歌手のまま静かに逝った。
(写真=祭壇に飾られた淡谷のり子さんの遺影)

寝たきりの状態
 生涯現役を貫いたブルースの女王が、ひっそりと旅立った。今夏の猛暑で体調を崩していた淡谷さんは、22日早朝、同居していた妹のとし子さん(90)や1人娘の奈々子さん(60)夫妻らに見守られ、東京都大田区上池台2の18の8の自宅で、眠るように静かに息を引き取った。取材にとし子さんは「とても穏やかな顔でした。ファンの皆さまには、本当にありがとうございました」とだけ言葉少なに話した。
 事務所関係者によると、淡谷さんは1993年(平成5年)に一過性脳虚血で倒れてからは、車いすでの生活を余儀なくされてきた。一時は復帰したものの、最近は体力もなくなり寝たきりの状態だった。さらに今夏の猛暑が食欲も奪い、衰弱していった。それでも、先月12日にはベッドの周りで92歳の誕生会が開かれ、ハッピーバースデーの曲に淡谷さんは笑顔でこたえたという。  淡谷さんは子供のころから歌が好きで、東洋音楽学校(現東京音大)にクラシック音楽を学ぶために進学。絵のモデルのアルバイトをするなど、苦学の末に首席で卒業。「10年に1人のソプラノ」と言われたが、クラシックでは生計が立たず、29年に歌手デビューした。

 流行歌を歌ったことで母校の卒業生名簿から除籍される悲哀を味わったが、37年に「別れのブルース」が大ヒット。圧倒的な声量で人気を集め、その後も「雨のブルース」など、哀調を帯びたブルースものが次々とヒットして「女王」の冠がついた。もっとも、本人は「私の場合のブルースは単にタイトルで、黒人音楽とは全然、別もの。間違っちゃいけませんよ」と語っていた。

津軽ジョッパリ
 歌手として人気が出る一方で、津軽のジョッパリ(強情張り)精神に支えられた反骨精神や強固なプロ意識は、世代を超えて共感を呼んだ。軍国主義一色の中でも、濃い口紅やパーマを愛国婦人会のメンバーに非難されると「歌手の化粧はぜいたくではありません」と反論。戦地での慰問公演では、退廃的と発売禁止になっていた「別れのブルース」などの外国曲を堂々と歌った。39年には未婚で1女をもうけていたことを公表するなど、奔放な行動ぶりも注目を集めた。
向上心は衰えず
 歌謡界のご意見番として毒舌を振るったが、言葉の裏には温かさをにじませた。98年10月、青森市から名誉市民に選ばれ笑顔を見せたのが、マスコミの前に見せた最後の姿だった。「勉強するしか道はない」「苦しみ、悩み、努力がない歌はインチキ」と向上心は衰えず、体は動かずとも最後まで現役意識を貫いた。口癖は「歌と一緒に死んでいきたい」。その言葉通りの人生だった。淡谷さんの事務所によると、あらためてお別れ会を行うという。

◇淡谷のり子さんの主なヒット曲◇
年 曲  名 世  相
29年 (夜の東京) 世界恐慌はじまる
30年 (ラブ・パレード) 独でナチス党躍進
31年 (私此頃憂鬱よ) 満州事変ぼっ発
32年 (唄はない恋の唄) 5・15事件起きる
33年 (海ゆく君に) 国際連盟を脱退
34年 (恋の月) 室戸台風大阪上陸
35年 (愛のセレナーデ) 初の映画館が開場
36年 (涙の踊子) 初の職業野球開始
37年 (別れのブルース) 日中戦争はじまる
(秋のブルース) 大本営令が公示
38年 (人の気も知らないで) 国家総動員法公布
(雨のブルース) 東京五輪中止
(月の小みち) 勤労動員が始まる
39年 (東京ブルース) 学生の長髪、
(夜のタンゴ) パーマネントが禁止に
40年 (満州ブルース) 日独伊三国同盟
41年 (すずかけの道) 太平洋戦争始まる
48年 (嘆きのブルース) 美空ひばりデビュー
(君忘れじのブルース) 初のナイター
49年 (黄昏エレジー) ビアホールが復活
50年 (東京ルンバ) NHKが実験放送
52年 (星降る港のブルース) 日航機三原山墜落
53年 (ルンバ・サファイヤ) 街頭テレビブーム
54年 (雨のプラットホーム) 自衛隊が発足
60年 (忘れられないブルース) 新安保条約が成立
63年 (遠い日のブルース) 三池炭鉱爆発事故
71年 (昔一人の歌い手がいた) マクドナルド開業
78年 (シャルメーヌ) キャンディーズ解散
92年 (抱いて) 「のぞみ」運転開始
93年 (揺り椅子) 皇太子ご成婚

ひっそりと通夜 葬儀日程発表されず
 25日午後6時から、東京都品川区西五反田5の6の8、安楽寺別院で淡谷さんの通夜がひっそりと営まれた。たくさんの花に囲まれた遺影は15年前のステージ写真が使われ、棺(ひつぎ)の中には、おしゃれが好きだった淡谷さんのために化粧道具やアクセサリーが納められた。通夜には近親者だけ約20人が参列し、芸能人の姿はほとんど見られなかった。報道陣約50人が集まったが、静かにしてほしい、という淡谷さんの生前の強い希望で取材などはできなかった。告別式の日程などは遺族側から発表されていないが、きょう昼にも同寺で行われるとみられる。


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淡谷さん語録
 「これで電気をつけて、ふろに入れる。これから自由に歌も歌えるし。玉音聴いてみんな泣いていたけど、私はニコニコでした」(1945年8月、終戦を迎え)
 「今の若い歌手のひどいこと。のど自慢で、かね1つといったようなものが、恥も外聞もなく盛んに歌っている。テレビのスイッチを思わず切りたくなるような歌手が多いんで、嫌になっちゃいますよ」(64年1月、シャンソン教室開講に当たって)

 「今の若い歌手は歌手じゃなくて『歌屋』にすぎない」(65年のNHK紅白歌合戦を前に発言。賛否両論を巻き起こした)

 「40年を支えてきたのは『強情っ張り』な性格でしょう」(69年8月、デビュー40周年記念リサイタルを前に)

 「懐メロ歌手と呼ばれるのが一番いや。私は今でも新しい曲を歌い続けている。そのことを全国の皆さんに知ってほしい」(73年10月、全国縦断ロング・リサイタルを開催し)

 「古いだけの骨とう品じゃないのよ。もう1回クラシックを勉強したいの」(78年9月、デビュー50周年リサイタルで)

 「片平なぎさ? 知らないわ。私がモデルのドラマなら(故)太地喜和子か桃井かおりにやってもらいたいものね」(79年1月、自伝ドラマの制作発表に欠席し)

 「レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ」(79年12月、芸能学校設立に当たり)

 「だいたい鼻にかかったあの子の声、いったい何ですか。結婚したら、もう2度と歌謡界に出て来るな」(80年11月、山口百恵の結婚・引退について)

 「(西城)秀樹は、前には見どころのある子だと思ったけど、跳んだりはねたり、あれはいけません。松田聖子? だあれ、その人。歌の土台ができてなくて、何ですか、リヒィーッとニワトリが首を絞められたような声を出して、あれが歌い手の発声ですか!」(80年11月、新聞のインタビューで)

 「演歌を聴くと胸がムカムカするから、あれが聴こえてくると逃げ回るんです。貧乏くさくて」(81年7月、テレビ朝日のドラマ「おやじの台所」に出演し)

 「あたしはね、やれるところまでやりますよ。歌と一緒に死んでかなきゃいけない、と昔から思ってるんだ」(82年8月、新聞のインタビューで)

 「冗談ではなく不感症になってしまったくらいです。不幸な初体験でした」(84年3月、自伝「私のいいふりこき人生」を出版、レイプされて初体験したことを明かし)

 「化粧品持って来て」(92年2月、風邪でダウン。入院初日にマネジャーに対し)

 「ヘアヌードなんて、ただべローンと裸になるだけ。心の中に何か持ってないと」(94年9月、第20回歌謡祭で)
 楼主| 发表于 2009-12-10 23:46:05 | 显示全部楼层
船村徹氏「一言一言に慈愛が…」歌謡界の大御所が人柄しのぶ
 淡谷さん死去の報に25日、後輩の歌謡界の大御所たちが口々に淡谷さんの人柄をしのんだ。後輩に対する愛情あふれる人柄を懐かしむ声が多かった。東洋音楽学校(現東京音大)の後輩でもある作曲家の船村徹氏(67)は「淡谷先生は『歯に衣(きぬ)着せぬ人』と言われたが、一言一言に慈愛がこもっていた。大衆音楽の世界に残した業績は計り知れない」と惜しんだ。

 淡谷さんからかわいがられたという歌手雪村いづみ(62)は「すべてのことに信念を通すさまは日本人離れしていた。後輩には厳しく、お辞儀や席順などいろいろ教えていただいた」。福岡・博多座で公演中の歌手北島三郎(62)は、3年前に淡谷さんと会ったのが最後だった。「『あなたは演歌もいいけどジャズを歌っても素晴らしいと思うよ』と言っていただいたあの日が最後となりました」と語った。

 後輩たちは「ブルースの女王」として音楽界に大きな足跡を残した淡谷さんの、歌に対する真剣な姿勢にも影響を受けている。雪村は「ピアノに寄りかかってでも歌っていた歌への情熱。私も歌手としてあんなふうになりたい」と決意を語った。




美川憲一「歌、心の師」
 淡谷さんと親しかった歌手美川憲一(53)はこの日、仕事先の福岡で淡谷さんの訃報(ふほう)を聞いた。美川は「このたび、大先輩淡谷のり子さんの訃報を聞き、大変心を痛めております。歌そして心の師と仰いでいました淡谷先生の突然の死去、今はただ悲しい思いのみです」とのコメントを発表した。淡谷さんは美川の歌手としての才能を高く評価。美川が1984年(昭和59年)に覚せい剤使用と大麻所持で逮捕された時、淡谷さんは東京地裁に減刑を求める嘆願書を書いたほど。96年(平成8年)に都内ホテルで行われた淡谷さん現役最後のステージで、淡谷さんは美川に自らの大ヒット曲「雨のブルース」を譲り渡した。
(写真=96年6月19日「米寿を祝う会」で森光子、島倉千代子(前列右から)らに囲まれる淡谷のり子さん(同中央))

眠るように
 扇ひろ子何度も見舞い 東京都大田区の淡谷さんの自宅近くに住む演歌歌手の扇ひろ子(54)は、何度も淡谷さんを見舞いに訪れたという。25日朝も淡谷さん宅を訪れた扇は「クラシックを聴いたり、テレビを見たりしていつもニコニコされていた。昔の青森の話を懐かしそうにしてくれたのが印象的でした」。家族が交代でそばに付いていたが、最期は眠るように息を引き取ったという。
明るく朗らかな方
 歌手石井好子(77)の話 淡谷さんは、まだだれ1人見向きもしなかった戦前から、シャンソンを歌ってきた人で、私たちシャンソン歌手の大先輩。明るく朗らかな方で、生涯を歌手として生きた人だった。私がまだ歌を歌い始めたばかりのころ、コンサートで淡谷さんの歌を歌った時に花束を持って来てくださったことが忘れられない。
先生は日本の宝物
 後輩歌手の島倉千代子(61)の話 淡谷先生は日本の宝物なんですよね。先生のお歌は、みんな好きですが、晩年にお歌いになられた「恋人よ」は素晴らしかった。心からごめい福をお祈りいたします。
厳しくもアドバイス
 歌手五木ひろし(51)の話 僕が「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜いた時に、審査員をされていたのが淡谷さんでした。勝ち抜いても「この歌は巻き舌で歌っちゃダメよ」などと、厳しくもアドバイスを頂いたのを今でも思い出します。この番組で、僕は歌手として本当のスタートを切ったわけですから感謝の気持ちでいっぱいです。
最も尊敬する大先輩
 歌手吉幾三(46)の話 郷土(青森県)の大先輩として、最も尊敬する歌手のお1人でした。本当に残念です。大阪での公演を終えたらすぐにでもお悔やみに駆けつけたいです。
華やかで威厳あった
 社民党党首土井たか子氏(70)の話 淡谷先生とは18年くらい前からの長い付き合いでした。時代を超えて、歌の道一筋で、中途半端が嫌いな方でした。それでいて、華やかで威厳がある。私のあこがれの人でした。あのような方は2度と出ないでしょうね。
温かく優しかった
 女優伊藤つかさ(32)の話 淡谷さんとは私の初舞台「不思議の国のアリス」でご一緒しました。ミュージカルも初体験だし、歌の経験も少ないので「怒られるかな」と緊張していたんです。ところが、淡谷さんは本当に温かくて優しい、すてきな方でした。
大事な人亡くした
 歌手協会会長の田端義夫(80)の話 日本の歌謡界に大きな足跡を残し、僕ら後輩たちにも大変な影響を与えた方でした。本当に大事な人を亡くしました。歌手協会が主催する「歌謡祭」などにも、よく顔を出していただきました。最近は、お顔を拝見しなかったので、とても心配していたんですが。青木(光一)理事長と先ほども話したんですが、協会としても何かメモリアルなことをしたいと考えております。

http://www.nikkansports.com/jinji/1999/seikyo990926.html
 楼主| 发表于 2009-12-10 23:58:36 | 显示全部楼层

渡辺はま子的讣告……

訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

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渡辺はま子さん、脳梗塞(こうそく)のため死去


 「支那の夜」「蘇州夜曲」などのヒットで知られる歌手の渡辺はま子さん(わたなべ・はまこ=本名加藤浜子=写真)が昨年12月31日午後7時15分、横浜市中区山手町252の自宅で脳梗塞(こうそく)のため死去していたことが11日、分かった。89歳だった。渡辺さんの遺志で、長女の征子(ゆきこ)さんら身内だけで5日に密葬を済ませた。昭和歌謡史に残る名歌手が、また1人逝った。

5日に密葬
 征子さんによると、渡辺さんの最後のステージは87年、東京・港区の郵便貯金ホールで行ったデビュー55周年のリサイタルだった。渡辺さんは、元気にステージに立っていた。しかし、同年12月に夫の貞治さんが亡くなってから、気落ちし、病気がちになったという。
 5年ほど前からは自宅で寝たきりになってしまい、征子さん夫婦が世話をしていた。征子さんが時々「蘇州夜曲」などのヒット曲のテープをかけたり、親交の深かった藤山一郎さんや淡谷のり子さんのテレビ番組を見せたりすると、渡辺さんはうんうんとうなずいて懐かしそうにしていたという。征子さんは「55周年のリサイタルも開いたし、本人は満足していたと思います。31日は、安らかに、眠るように旅立ちました」と話した。ステージに立たなくなって久しいことから渡辺さんと征子さんの意向で5日に身内だけで密葬を済ませた。

渡辺はま子さんの代表曲
年月 タイトル
1933・12 海鳴る空
 36・ 2 忘れちゃいやよ
 36・ 8 とんがらかっちゃ駄目よ
 36・ 9 月が鏡であったなら
 38・12 支那の夜
 40・ 8 蘇州夜曲
 47・ 1 雨のオランダ坂
 50・ 8 火の鳥
 50・10 桑港のチャイナ街
 51・ 3 チャンウェイ・チャンウェイ
 52・ 8 あゝモンテンルパの夜は更けて

 渡辺さんは武蔵野音楽学校卒業後、33年にポリドールから「最上川小唄」でデビュー、12月にビクターから「海鳴る空」で再デビューした。このころは母校の女学校の教師もしていた。36年に「忘れちゃいやよ」が大ヒット。しかし「甘い歌い方が官能的」として内務省から発売禁止処分を受けた。この騒動で女学校を退職したという。

 その後、コロムビアに移籍、戦時色の濃い世相を背景に38年、大陸での切ない思いを歌った「支那の夜」が大ヒット。「蘇州夜曲」など中国大陸を題材にしたヒット曲を連発し「チャイナメロディーのおはまさん」と呼ばれた。上海など戦地への慰問も数多く行った。戦後、フィリピンの日本人戦犯との文通をきっかけに死刑囚が作詞作曲した「あゝモンテンルパの夜は更けて」をレコード化。これがきっかけでモンテンルパ慰問が実現し、翌年に戦犯者全員が釈放されて反響を呼んだ。

1800曲
 渡辺さんの生涯の吹き込み曲は約1800曲に上り、昭和歌謡史に残る歌手だった。征子さんは「藤山さんや淡谷さんと天国でにぎやかに歌っていることでしょう」と話していた。

モダンで先進的
 音楽評論家・伊藤強氏の話 中国大陸など、当時の日本人のあこがれの場所を、チャイナドレス姿で歌ってモダンで先進的な流行歌手だった。新しい歌謡曲の世界を開いた貴重な存在。終戦を中国で迎え、抑留されていた経験から、慰問も積極的に行い、歌手としての社会的役割に目覚めていた。モンテンルパでの当局への減刑や釈放の嘆願も、彼女の意思で行われた。

 ◆渡辺はま子(わたなべ・はまこ) 本名加藤浜子。1910年(明治43年)10月27日、横浜市生まれ。武蔵野音楽学校卒業後、33年(昭和8年)6月ポリドールから「最上川小唄」でデビュー。36年「忘れちゃいやよ」で人気に。「支那の夜」「蘇州夜曲」などヒット曲多数。NHK「紅白歌合戦」に8回出場。日本レコード大賞特別賞を2回受賞(73、82年)。73年紫綬褒章、81年勲4等宝冠章受章。


http://www.nikkansports.com/jinji/2000/seikyo000112_1.html
 楼主| 发表于 2009-12-11 00:01:46 | 显示全部楼层

村下孝蔵的讣告……

訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

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村下孝蔵さん 高血圧性脳内出血のため死去
 「初恋」「踊り子」などのヒット曲で知られるシンガー・ソングライター村下孝蔵さん(むらした・こうぞう=本名同じ)が24日午前11時27分、高血圧性脳内出血のため、都内の病院で死去した。46歳。20日にコンサートリハーサル中に倒れ入院し、そのまま意識が戻らなかった。今年はデビュー20周年で、7月3日にコンサートを控えていた。
(写真=高血圧性脳内出血で急死した村下孝蔵さん)

「気分が悪い」と
 村下さんの死は突然だった。20日、東京・駒込のスタジオ「サウンド・ファクトリー」でコンサートのリハーサルをしていたところ「気分が悪い」とスタジオ内でうずくまった。スタッフらに付き添われ東京・虎の門病院に緊急入院。21日に容体が急変し、意識不明状態に陥った。そのまま意識は戻らず、この日午前11時27分、妻裕子さんら家族にみとられて息を引き取った。
 村下さんは7月3日には東京・渋谷公会堂で恒例の七夕コンサートを控え、連日リハーサルに没頭していた。今年はデビュー20周年。9月には1年ぶりのシングル「同窓会」、4年ぶりのアルバムを発売する予定で、すでにレコーディングは終了していた。

 中学、高校時代は水泳の選手だった。熊本・鎮西高時代は平泳ぎの選手として活躍し卒業後、実業団の新日鉄にスカウトされたほどの実力だった。1984年(昭和59年)に肝炎を患い、2年余り闘病生活を送ったこともあるが、最近は病気になったこともなかったという。

 村下さんが所属するソニー・ミュージックアーティスツの関係者は「毎日散歩が趣味で、酒もたばこもやらない。人一倍健康に気を使っていた方なのに、なぜ」と困惑している。

年内50公演予定
 村下さんはピアノ調律師を経て80年にデビュー。83年に「初恋」がヒット。美しいメロディーラインと、高音まで伸びるやさしい歌声で、男女の別れや故郷への思いなどを叙情的に歌い人気を集めた。
 「自分の歌を直接聴いてもらうのが原点」という考えから、テレビなどにはほとんど出演せず、日本各地を丹念に回るコンサートを中心に活動してきた。年内に、50本にも及ぶコンサートを予定していた。「フォーク最後の生き残り」を自称していた。



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健康を笑顔で語る ラジオで最後の声
 村下さんは21~24日まで、文化放送「川中美幸 人うた心」(月~金曜午後5時30分)にゲストで出演しており、これが最後の肉声になった。番組スタッフによると、収録は今月3日に行われ「変わったこともなく、元気そうだった」という。川中とのトークでは「このごろは、ひまな時間に毎日10キロ歩いているんです。2時間かけてゆっくりと。健康とダイエットのためです。最近は、歩かなかった日は気持ちが悪いですよ」と健康について笑顔で話していた。川中への楽曲提供を約束して番組が終了した。この日、埼玉県川口市のコンサート会場で訃報(ふほう)を聞いた川中は「収録の時はあんなに元気だったのに……。もう何て言っていいのか分かりません」と言葉を詰まらせていた。


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 ◆村下孝蔵(むらした・こうぞう)本名同じ。1953年(昭和28年)2月28日、熊本県水俣市生まれ。73年、広島に移りピアノ調律師に。79年CBSソニーの中国地区のオーディションで優勝し、80年「月あかり」でデビュー。83年発売のシングル「初恋」が50万枚のヒット。「踊り子」(83年)などのヒット曲がある。最近では、裕木奈江らに楽曲を提供。家族は、裕子夫人と1女。
 葬儀日程
 ▼通夜 25日午後6時から
 ▼葬儀・告別式 26日午前10時30分から、会場はいずれも東京都中野区中央2の33の3、宝仙寺大師堂で
 ▼喪主 妻裕子(ひろこ)さん
 ▼葬儀委員長 竹内成和ソニー・ミュージックアーティスツ社長


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