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[其他] 日本演歌的知识普及

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发表于 2011-7-29 16:29:52 | 显示全部楼层 |阅读模式
演歌与日本文化
  演歌是明治、大正时期产生的一种音乐形式,是演歌师用独特的发声技巧演唱的歌曲。它起源于19世纪80年代自由民权运动的斗士们以歌代替演说的「壮士节」。自由民权运动由于受到政府的镇压,印刷品被没收,演说会场被捣毁,其日常活动就不能按正常的方式展开。于是,自由民权的斗士们就纷纷走上街头,把演说的内容用演唱的形式向观众宣传。演歌原本就是「演说の歌」之意。后来,作为大众歌谣的一种,演歌的定义也在不断发生变化。严格意义上的演歌实际上是指1890年之后的流行歌曲的一部分。在自由民权运动高涨的19世纪80年代的歌曲如植木枝盛的「民権数え歌」,安冈道太郎的「よしや武士」,高知县的「民権踊」都采用自古就有的旋律,这样的歌严格地说还不能称为演歌。演歌的第一曲应该是川上音二郎的「オッペケペ」。这首歌在1889年以「一枚刷」的形式出版,第二年在京都的高座演唱时大受欢迎。1891年,随着宣传自由民权运动的「武士芝居」剧团的东进,演歌在东京也引起了轰动。可以说,演歌歌唱自己身边琐事的民俗化倾向,引起了民众的共鸣。因此,就出现了在街头边卖歌本边演出的「壮士」。许多人都模仿「オッペケペ」「滑稽腕力节」「ヤッツケロ节」「钦慕节」这些曲调演唱。1895年甲午中日战争结束后,一些学生就把男女爱情这一内容引入演歌这一演唱领域,「书生节」「演歌师」这些名称就成了当时的流行语。另一方面,添田哑蝉坊还作了许多带有社会主义色彩的演歌。如「金の世」、「増税节」,继续以演歌为武器来反抗黑暗的现实。但由于当时社会现实的严酷性,演歌从硬派向软派转变就成了了不可避免的事情。演歌的思想性就淡化了,成了一种大众歌曲。明治后期著名的演歌有神长了月的「松の声」、「残月一声」,中林武雄的「不如帰」、「夜半の忆出」。而且,大正初期的「カチューシャの歌」,后期的「船头小呗」、「笼の鸟」的流行,也与演歌师的努力是分不开的。到了昭和初期,随着电唱机、收音机普及的,街头的演歌师渐渐消失了踪影。一直战斗到最后的石田一松也以「时事小呗」结束了自己的把演歌作为政治斗争武器的演艺活动。1970年以后新音乐开始兴起,为了便于区分,把以前采用「ヨナ抜き音阶」,加入「こぶし」的歌谣都称为演歌。也就是说,明治后期开始的软派占据了演歌的主流,甚至一度将其名称写成「艶歌」或「怨歌」。   
     从配器和演奏来看,虽然采用了海外一些流行乐的形式,但它的旋律还是日本传统的歌谣。现在所说的「歌谣曲」,就是以演歌为代表的。它的旋律,大多采用「ヨナ抜き音阶」,即4、7音阶缺失的音阶。因为在明治时期,多来米是用「ヒフミ」这样的数字训读的形式来表示的。这种配乐实际上是西洋的音阶和日本的音阶折衷,同时又加入了民谣、三味线等日本传统的音乐元素构成的。   1977年,韩国歌手李成爱把日本的演歌用自己独特的乐感去重新演绎,在日本掀起了巨大的轰动。因为与韩国的民谣「パンソリ」具有共同的音乐元素,演歌在韩国也人气直上。1910年代的「船头小呗」、「笼の鸟」都被介绍到了韩国。80年代,千昌夫的「北国の春」被介绍到了中国,也引起了强烈的反响。在西方国家,演歌也大受欢迎。如美空ひばり的演唱在西方掀起了狂潮,她本人也被誉为日本的「マリア·カラス」(著名女高音歌唱家)。   从1950年以前的演歌的歌词来看,「涙、雨、酒、泣く、别れ、せめて、どうせ、はかない、淋しい」这样的用词很多,以「别れ、みれん、あきらめ」等男女之爱为主题的感伤的歌占据了演歌的主流。歌中描写的恋情也多是一些无法实现的爱。在歌中,「船、港、波止场、プラットホーム」都成了分手的象征。歌词的节奏以传统的5、7的基本节奏为主。和一些以分别为主题的流行歌曲相比,歌中的分别以身份的差异、义理以及贫困等社会原因造成的分手为主,而现在演歌中的分手,往往带有更多的个人意识,歌词也近似于日常会话的节奏。
编辑本段种类
  当前的演歌题材更加广泛,虽然其种类划分并没有严格的标准,但一般可分为以下几种。   「夫妇演歌」   以夫妇生活为题材的演歌。由于是描写家庭生活,题材通俗,非常受欢迎。如三船和子的「だんな様」,三笠优子「夫妇舟」「夫妇川」「もういちど夫妇船」「夫妇桥」等。   「寿·お祝い演歌」   在结婚仪式和各种祝贺仪式上能够演唱的演歌。如成世昌平的「寿」,香田晋的「ここに幸あり」「お宝女房」,门脇陆男的「祝い船」,市川由纪乃的「寿・祝い呗」,中村美律子的「しあわせ酒」,松前ひろ子的「祝いしぐれ」等。   「亲子演歌(ファミリー)演歌」   以父子、父女、母女、祖孙等家庭关系为题材,重视血缘和家庭温情的演歌。如大泉逸郎的「孙」,北岛三郎的「亲父」,金田たつえ「花街の母」,东八郎的「娘へのバラード」,芦屋雁ノ介的「娘よ」等。   「民谣系演歌」  在曲中通过民谣的大量运用,来酝酿日本情调的演歌。如成世昌平的「はぐれコキリコ」,中村美律子的「河内おとこ节」,北见恭子的「红の舟呗」等。   「「「歌谣曲系演歌」」   以「恋・酒・男・女・别れ」为主的演歌,这类演歌在总体中占了很大分量。歌手有前川清、竹岛宏、北川大介、唐木淳、加门亮、サザンクロス、ロスプリモス等。   「ポップス演歌」   这种演歌由于和一些当代流行音乐元素紧密结合在一起,具有和通常意义上的演歌不同的印象,以抒情为主,带有一点轻摇滚的音乐元素。这种演歌的代表歌手最多。如和田アキ子、チェウニ、チャン・スー、高桥真梨子、堀内孝雄、谷村新司、河岛英五、加藤登纪子、西岛三重子、佳山明生、因幡晃、前田有纪、美贵じゅん子、小柳ルミ子等。   「人生演歌」   歌唱人生,歌名中带有“人生”二字的演歌。如岛仓千代子的「人生いろいろ」,石上久美子的「人生双六おとこの旅路」,麻生佑希的「人生」,キム・ヨンジャ的「人生海峡」,石川さゆり的「人生情け舟」,立树みか的「人生七坂」,野中沙央里的「度胸人生」等。   「海峡演歌」   以○○海峡命名的演歌,不仅如此,这类海峡演歌的歌唱速度和序曲都独具特色。海峡的地名并不都是现实中实际存在的地名。如西村亜希子的「越佐海峡」,北野まち子的「しぐれ海峡」,多岐川舞子的「海峡终列车」,野中彩央里的「海峡」,市川由纪乃的「海峡氷雨」「さいはて海峡」,服部浩子的「海峡わかれ町」,多岐川舞子的「海峡终列车」,松原のぶえ的「涙の海峡」,青木香织的「情念海峡」等。   「郷愁演歌」   以歌唱在外地的辛酸和对故乡亲人思念的演歌如嶋三喜夫的「山里しぐれ」「见かえり峠」「里帰り」,三桥美智也、春日八郎的演歌等等。   除此之外,还有「ダンス演歌」「幸せ演歌」等分类。   演歌起初从一种宣传政治主张的战斗武器发展成为日本传统的演唱形式,从其演变过程和分类中我们可以看到,演歌最终走上了和民众的日常生活、情感相结合的道路。这才使它具有了更强大的生命力。与中国的用民族唱法演唱的歌曲相比,它的特征是非常明显的。和深受中国人喜爱的歌曲如《红星照我去战斗》、《家和万事兴》、《十五的月亮》、《春天的故事》、《走进新时代》等歌曲不同,演歌往往是用敏锐的感觉去扑捉去感受自己身边的自然和情感,是一种个人情感的流露,缺乏一种审视社会和政治的广阔视野。日本人这种脱离政治的传统文化嗜好,从一开始就决定了演歌的发展命运。中国人的“歌以言志”的艺术观,决定了民族歌曲和日本完全不同的创作方向。据笔者调查,与以上歌曲比起来,日本人更喜爱象《在那遥远的地方》、《大海啊,故乡》这样的歌曲。可以说,日本人的文艺与政治相脱离的审美观,决定了他们的价值取向。   同时,我们还可以看到《万叶集》以来“哀”的传统对文艺的影响。从“哀”到《源氏物语》的“物哀”,形成了日本人以哀为美的美学理念。从演歌的歌词、旋律都可以看到这一点。虽然,也有「幸せ演歌」这样的演歌,但其数量很少,并不是演歌的主流。在演歌日本式的哀愁中,我们可以看到日本人对事物的细心观察,对“人情”的重视以及对人生的深刻思索。   此外,我们还可以看到日本人对异文化的接受方式。演歌之所以被认为是具有日本特征的音乐,并不是因为它是纯粹的日本货,而是因为它把西洋的音乐元素和本土的音乐元素完美地融合在一起的原因。从这一点上也体现了日本人对待传统和外来事物的态度,即对外来事物的吸收不是全盘化的,而是有所选择的。同时对形式的吸收多于内容,并在吸收的过程中努力将其“日本化”。
 楼主| 发表于 2011-7-29 16:32:06 | 显示全部楼层
演歌(えんか)は、日本の大衆音楽のジャンルの一つであり、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲の分類であるとされている。歌手独自の歌唱法や歌詞の性向から、同じ音韻である「艶歌」や「怨歌」の字を当てることもある。
演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた音階を平均律に置き換えた五音音階(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法である。この音階法は古賀正男、後の古賀政男による古賀メロディとして定着した、以降演歌独特の音階となる(ただし、ヨナ抜き音階そのものは演歌以外の歌謡曲などでもよく使われる音階である)。古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の藤山一郎(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、1960年代に美空ひばりを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。
歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法(メリスマとほぼ同義)が多用される。又、必ずと言ってよいほど、「ビブラート」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。
演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時に和服を着用することが多い。
歌詞の内容は“海・酒・涙・女・雨・北国・雪・別れ”がよく取り上げられ、これらのフレーズを中心に男女間の切ない情愛や悲恋などを歌ったものが多い。美空ひばり「悲しい酒」、都はるみ「大阪しぐれ」、大川栄策「さざんかの宿」、吉幾三「雪國」など。特に吉の「酒よ」には“演歌”がズバリ出て来る。
上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。
また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なムード歌謡というものがある。
とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。たとえばジャズピアニストの山下洋輔は、“音楽理論的に両者を分類することができない”の意で「演歌もアイドル歌謡も同じにしか聞こえない」と述べていたといわれる。
男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマとしては、 幸せ夫婦物…村田英雄「夫婦春秋」、三笠優子「夫婦舟」、川中美幸「二輪草」など。
母物…菊池章子・二葉百合子「岸壁の母」、金田たつえ「花街の母」など。 その他家族物…鳥羽一郎「兄弟船」、芦屋雁之助「娘よ」、大泉逸郎「孫」など。
人生物、心意気物…村田英雄「人生劇場」、「花と竜」、北島三郎「山」、「川」、中村美律子「河内おとこ節」など。 股旅物…ディック・ミネ「旅姿三人男」、橋幸夫「潮来笠」、氷川きよし「箱根八里の半次郎」など。 任侠物…北島三郎「兄弟仁義」、高倉健「唐獅子牡丹」など(股旅物に近いが、股旅物は軽快、任侠物は重厚な曲調が多い)。
    歌謡浪曲物…三波春夫「俵星玄蕃」、「紀伊国屋文左衛門」、など。
劇場型ドラマチック物…山口瑠美「山内一豊と妻千代」、「至高の王将」、「白虎隊」など。
望郷物…北島三郎「帰ろかな」、千昌夫「北国の春」、「望郷酒場」など。
以上のどれにも当てはまらない物として細川たかし「北酒場」。作詞家が見た“北の酒場通”の様子がポンと描かれただけで、演歌特有の情景が全く入っていないのが新鮮に受け取られレコード大賞を受賞した。

   演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手の淡谷のり子は演歌嫌いを公言し、「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。作曲家のすぎやまこういちも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。
 楼主| 发表于 2011-7-29 16:34:37 | 显示全部楼层
1950年代(復興期)
戦後も日本の大衆音楽は「流行歌」によっていたが、新世代の台頭と昭和28年(1953年)の藤山一郎の引退により音楽性が揺らぎ始め、次第に今の演歌に近い曲が出現し始めた。この時期既にブギウギで流行歌歌手としてデビューしていた美空ひばりも音楽性をシフトさせ、キングレコードから望郷歌謡の春日八郎、三橋美智也、ビクターレコードから任侠路線のスター鶴田浩二、テイチクレコードから浪曲出身の三波春夫、戦後の大スター石原裕次郎、コロムビアレコードからは三波と同じく浪曲界より村田英雄がデビュー。更に泣き節の島倉千代子、マイトガイ小林旭らが登場。民謡や浪曲などをベースにし、それまでの「流行歌」とはかなり質の異なる現在の演歌に近い作風の楽曲が出現した。この時期のヒット曲に「お富さん」「別れの一本杉」「哀愁列車」「おんな船頭歌」「古城」「チャンチキおけさ」「船方さんよ」「からたち日記」「人生劇場」など。

1960年代
昭和38年(1963年)、演歌専門のレコード会社・日本クラウンの独立とさまざまな音楽の流入により「流行歌」が消滅し、多数の音楽分野が成立した。その中で、ヨナ抜き音階や小節を用いたものが「演歌」と呼称されるようになったのである。戦前に途絶した「演歌」分野の再来ではあるものの、社会風刺的要素は全くなく、‘‘名称だけの復活’’となり、演説歌を起源とする旧来の演歌は、戦後に流入したアメリカンフォークの影響によって「フォーク」に変わる。

演説歌が「フォーク」と呼称・総称されるようになり、演歌と呼ばれなくなったことで、ヨナ抜き音階や小節を用いた歌謡曲の派生形が「演歌」と呼称されるようになったとの見方もでき、その演歌を除く楽曲における幅広いジャンルとしての歌謡曲が1990年代に入り、「J-POP」と呼称・総称されるようになったことで、演歌を「歌謡曲」と呼称するのと同じようなものである。

この時期映画スターの高倉健も歌手デビュー、北島三郎、橋幸夫、都はるみ、青江三奈、水前寺清子、千昌夫、森進一、藤圭子、小林幸子(わずか10歳でデビュー)、コミックバンド派生の宮史郎とぴんからトリオ、殿さまキングスなどが登場した。

作曲家は流行歌から転身した古賀政男に加え、吉田正、猪俣公章、船村徹、市川昭介、流しから転身した遠藤実、ロカビリー歌手から転身した平尾昌晃が登場、作詞家ではなかにし礼、星野哲郎、岩谷時子、山口洋子、川内康範らが登場、「王将」「皆の衆」「花と竜」「潮来笠」「三百六十五歩のマーチ」「北帰行」「港町ブルース」「池袋の夜」「柔」「悲しい酒」「浪曲子守唄」「なみだ船」「函館の女」「兄弟仁義」「帰ろかな」「柳ヶ瀬ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「星影のワルツ」などがヒットし、老若男女から支持され演歌は空前の全盛期を迎える。(ナベプロ所属の歌手に代表される)洋楽指向の歌謡曲と人気を二分した。

ただし演歌と歌謡曲との間に明確な分岐ラインが存在するわけではなく、むしろ歌手(およびレコード会社など)が「自分は演歌歌手」と称するかどうかが分かれ目と見る向きもある。例えばグループサウンズ時代、ど演歌節の旅がらすロックを歌った井上宗孝とシャープファイブは演歌歌手には含まれないと見る向きが多い。

1970年代
1970年代に入ると五木ひろし、八代亜紀、森昌子、石川さゆり、細川たかしなどが登場。「なみだの操」「夫婦鏡」「女のみち」「女のねがい」「おやじの海」「よこはま・たそがれ」「傷だらけの人生」「くちなしの花」「ふるさと」「喝采」「せんせい」「心のこり」「与作」「舟唄」「昔の名前で出ています」「昭和枯れすすき」「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」「おもいで酒」「北国の春」「夢追い酒」など多くのヒット曲が生まれ、フォーク、ニューミュージック、アイドル歌謡などと競い合いながら安定した発展を見せていた。一方で昭和49年(1974年)には森進一がフォーク歌手の吉田拓郎作の「襟裳岬」でレコード大賞を受賞するなど演歌と他のジャンルとのコラボレーションがはじまり、以後演歌かその他の音楽ジャンルか分別の難しい曲も登場することとなる。

1980年代〜1990年代
1970年代後半から1980年代にかけて中高年の間でカラオケブームが起こり、細川たかしのようにカラオケの歌いやすさを意識した演歌歌手が台頭し一時代を築いた。カラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。若者のポップス志向がより強くなり演歌離れが進む。

1980年代半ば以降は若者と中高年の聞く歌がさらに乖離していく傾向が強まっていった。テレビの歌番組も中高年向けと若者向けが別々になり、年代を問わず誰もが知っている流行歌が生まれにくい時代となった。若者もカラオケに夢中になる様になり、日本のポップスもカラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。演歌が中高年のみの支持に限定されてきたことや、素人がカラオケで歌いやすいことが尊ばれ、北島三郎のように圧倒的な声量や歌唱力を誇る歌手や、森進一のように独特な声質と歌唱法を持つ個性的な歌手が実力を発揮しにくくなり、テレビへの露出が減少した。そのため緩やかな保守化と衰退が始まった。

1980年代から1990年代前半にかけて伍代夏子、坂本冬美、香西かおり、藤あや子など、この時期にデビューし大御所のポジションを手に入れた歌手も存在する。また島倉千代子の「人生いろいろ」、美空ひばり「みだれ髪」など往年の大御所歌手も健在ぶりをアピールしている。

吉幾三や長山洋子など他ジャンルからの演歌転向者や、ニューミュージックから演歌に寄った堀内孝雄や、ポップス寄りの演歌を歌う桂銀淑のように独自のスタイルでヒットを出す歌手も現れ、「ニューアダルトミュージック」という新しいジャンル名も生まれた。緩やかな衰退の中で分化が起こり、「演歌」という音楽ジャンルの定義もより拡大しつつあった。

主なヒット曲には「雨の慕情」「おまえとふたり」「大阪しぐれ」「みちのくひとり旅」「奥飛騨慕情」「さざんかの宿」「兄弟船」「氷雨」「娘よ」「北酒場」「矢切の渡し」「長良川艶歌」「つぐない」「時の流れに身をまかせ」「すずめの涙」「夢おんな」「雪國」「酒よ」「雪椿」「命くれない」「無錫旅情」「恋唄綴り」「麦畑」「流恋草」「無言坂」「むらさき雨情」「こころ酒」「夜桜お七」「蜩」「珍島物語」など。

1990年代も半ばを過ぎると若者の中に支持者がほとんどいなくなった上、大御所歌手のヒットも年々減少し演歌の衰退は激化。1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。

2000年代
平成12年(2000年)に大泉逸郎の「孫」や氷川きよしの「箱根八里の半次郎」が大ヒットし、一時的ではあったが、久しぶりの大ブームが起こった。ただし「孫」は大泉と同年代かそれ以上の中高年層の間でのヒットであり、10代、20代にも人気を博した氷川きよしの場合は演歌歌手としては規格外のルックスにより若者受けした部分が大きく、歌それ自体に対する評価は以前とそれほど変わらなかった。

一方で、前川清の「ひまわり」(平成14年(2002年)ヒット:福山雅治プロデュース)のように演歌歌手がポップスを意識した楽曲を発表するような動きも増えている。そのため、ジャンルとしての演歌の枠に納まらない楽曲も多くなり、演歌系の楽曲を総称して演歌・歌謡曲(オリコンでは歌謡・演歌)と呼ぶようにもなってきている。また、演歌・歌謡曲に含まれる楽曲の中には、すぎもとまさとの吾亦紅のように、演歌歌手ではない歌手が歌唱し、以前ならば狭義での歌謡曲には含まれなかったフォーク系やその歌唱法の楽曲も一部含まれるようになり、社会風刺的なものはないものの演説歌の流れを汲むフォークと、名称のみ演歌と称する現在の演歌が一つのジャンルに納まるという現象が発生している。

一時期1人、または2〜3人だった大型新人演歌歌手のデビューも毎年4〜5人まで増えている。また、ランキング上位を占めていたJ-POP全体の売り上げが停滞するにつれ、相対的にランキングでも上位に顔を出すことが多くなっている。

また、平成20年(2008年)にデビュー曲「海雪」がヒットしたジェロは初の黒人演歌歌手として注目され、ヒップホップスタイルのファッションでの演歌歌唱も話題となり、ヒットした。

更に、鼠先輩(2009年12月31日引退)、美月優など半ばお笑い芸人のようなスタイルの歌手も出現。かつてインド人演歌歌手として活躍していたチャダも再来日し、音楽活動を再開。テレビ出演がきっかけとなり北島三郎に見出された大江裕、「平成の美空ひばり」とも称されるさくらまや等、大きなヒットこそないものの異色の新人歌手の発掘が次ぐ。

2010年代
2010年、川内康範が近藤真彦に歌わせたいと21年前に書き下ろした「ざんばら」が近藤真彦の歌唱により発表され、話題となり、ヒットとなる。また、坂本冬美がポップス系楽曲に挑戦し、フォークデュオのビリーバンバンの楽曲「また君に恋してる」のカバーが話題となった。
发表于 2013-9-18 02:59:08 | 显示全部楼层
很不错阿。。。
发表于 2013-9-18 02:59:36 | 显示全部楼层
很不错阿。。。
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